ボーナスとして幾ばくかの金がふところに入ったので、靴を新調しようと思い立った。早速僕は昼休みに会社を抜け出し、表通りの裏でひっそりと営業している靴屋に入った。ガラスドアには存在感をひた隠しにするかのような小さな木の掛札がかけてあり、そこに小さく『靴』と彫られているだけで、注意しなければ靴屋だと分からないような店構えだった。だが店内に入れば、なめした皮の臭いがし、英国の街にあってもおかしくないような気品があり、そこは紛れもなく靴屋だった。初めて入るその店のたたずまいに僕は圧倒されて、いくらボーナスを得たとはいえ、とても僕が来て良いような店ではなかったなと後悔した。
「いらっしゃいませ。」
 奥のほうから、背の高い老人がゆったりと歩いてきた。
「あなたみたいな若い方が来られるなんて珍しいものだ。ここには華美な靴はありませんが、それでもよろしいですかな?」
 老人の言葉の中に蔑みを感じた。若いやつにはまだ早いとでも言いたげだ。
「構いません。自分の足に合った靴を作りたいと前々から思っていましたので。」
「結構です。では採寸をさせていただきましょう。その前にひとつだけ確認しておきますが、あなたは私の店がどのような店かを知った上でおいでになったのですか?」
「…いえ、知りません。」
「なるほど。では、とりあえず先に採寸をさせていただきましょう。」
 老人は慣れた手つきでパッパと僕の足を細かく調べ、ファイルに記入していった。それにしても、一体、さっきの質問は何だったのだろうか。僕が足を測られながら考え事をしていると、老人は奥へ引っ込み、いくつかの箱を抱えてやって来た。
「あなたの足のサイズに近いサンプルです。ま、色々履いてみて下さい。」
 グレーやダークブルーの箱が置かれ、僕は椅子に腰掛け、箱をひとつ開けてみた。中にはいかつい感じの革靴が収められていた。僕がそれを取り出して履いている間、老人は独り言のように語っていた。
「おしゃれは足元から、などと言います。どんなに素晴らしいスーツを着ても、足元が貧相ならば全て台無しです。故に、足元には細心の注意と敬意を払わなければいけません。靴で人間性が判断されかねず、また、靴によって人は変わるものだと私は思います。」
 くどくどと話しつづける老人をぼんやりと見、僕は履いてみた靴を脱いだものかどうしたものか迷っていた。なかなか足に合う靴だけれど、いまいちピンと来ない感じがする。いや、つまらない靴だな。なんだこの靴はものすごくつまらないな。そしてそれ以上に老人の話が死ぬほどつまらない。もう耳にも入ってこない。なんでこんなにつまらないんだろう。ああもうこの場で死ぬか。
「これを履くと、誰でも退屈になります。」
 急に意識がはっきりとしてきて、老人の声を認識する事ができた。いつの間にか老人は僕の足元にかがんでいて、僕の足から靴を脱がしている。
「そ、その靴は何なんですか!?」
「退靴です。シシシ。」
 自嘲気味に老人は笑う。
「こんな靴はいかがでしょう?」
 別の箱から取り出した靴を、老人は無造作に僕に履かせる。
「私は靴で人の気持ちをコントロールする事が可能だと知ったのです。例えば明るい色の服を着て出かけると楽しい気持ちになるように…」
 また老人は靴の解説を始めたらしいが、僕はふと別れた彼女の事を思い出してしまって、そこからは細胞分裂のように悩み事が生まれ出てきて、今までの悩み事を覆い尽くし、また悩み事が生まれ出てきて、また…。急に憂鬱な気分になってしまい、老人の話に耳を傾けるどころじゃなくなってしまった。ああ、田舎の両親にはあとどれぐらい会えるのだろう…。
「鬱靴です。シシシ。」
 またもや僕は靴を脱がされ、すぐさま別の靴を履かされていた。今度の靴はえらくサイズがきついような気がする。痛い。
「これ、サイズ小さいですよ。」
「いいえ、ピッタリですよ。シシシ。」
 老人は笑う。魚眼レンズを通したかのように店内の四方が僕に覆い被さってくる。僕がブラックホールにでもなったかのように、世界は僕に向かってくる。狭い! 怖い! 狭い!
「窮靴でした。シシシッ。」
 気がつけば既に別の靴を履かされている。
「靴を買いたいですか?」
「え? はい。買いたいです。」
「じゃあ、絶対に『熱い』と言ってはダメですぞ。」
 言うなり、老人はくわえていたパイプの灰を僕にぶっかけた。僕は椅子から転げ落ち、あまりの熱さにもだえた。
「どうです? なんとか言ってごらんなさい? 熱いでしょう?」
 ここで『熱い』と言おうものなら、靴は買えない。絶対に靴を買うんだ。買ってやるぞ!
「次は一言も発してはダメですぞ。」
 老人は僕を思いっきり蹴り上げる。老人と思えぬ力で、何度も何度も僕を蹴りつける。
「ほれほれ! 何とか言ってみろ! シシシシシシシシシシ!」
 僕は両手で口を抑え、一言も言わぬようにしてリンチに耐える。靴を買うためなら、どんな困難にだって立ち向かってやるぞ!
「不靴です。ウシシシシシ。」
「いい加減にしてください。」
 僕は怒りを抑えて老人に言った。
「これはすみませんでした。ですが、私の靴がどういったものかお分かり頂けましたでしょう? さて、どのような靴をご所望でしょうか?」
「普通の靴をください。お願いします。」
 僕はもう老人の遊戯に付き合うのはウンザリだった。
「仕方ありませんな…。こちらの靴がちょうどあなた様にピッタリの靴でして、もしこれでよろしければ今すぐにでもお渡しできますが?」
 見ればなかなか形が良く、品の良い靴だった。
「履いてみていいですか?」
「どうぞどうぞ。」
 履いてみると、確かに僕の足にフィットする靴だった。いい靴だ。僕はすぐにこの靴が気に入った。
「最低、最悪の靴ですので、お売りできません。返してください。」
 突然の、老人の喧嘩を売っているかのような発言に、僕はムカっとなった。
「何? だ、誰が返してやるもんか! これは俺の靴だぞ。俺のもんだ。うははははは!」
「では、お代は結構ですので、どうぞお持ち帰りください。一銭もいりません。」
 何故だか分からないけれど、老人の言うとおりの行動を取るのが嫌だ。それに背かなければ気がすまない。老人が困る事をしなければ気がすまない。何故だ!?
「本当に一銭もいりません。何円かお支払い頂くのならまだしも、まして財布ごと頂くだなんて、そんな! 迷惑です!」
 老人の静止を振り切り、僕は財布ごと置いて店を出た。何度も何度も振り返るたび、老人はいつまでも卑屈に笑っていた。

 ちょうどその日を境に、僕は偏屈なやつだと噂されるようになったらしい。ふん。そう言いたいやつだけ言っていればいい。