渋滞を抜け、なんとか目的地の海水浴場に辿り着いた時には、浜辺に肌色がびっしりと撒き散らされていていた。駐車場は諦め、住宅街の一角まで入り込んで車を止めると、僕と彼女はうだるような暑さの中へ入った。肉厚の入道雲がゆったりと青空を滑っていく。僕と彼女は無言のまま、戦場のような海水浴場へと向かった。ここまで来たからには、向かわなければ気がすまなかった。
 既に正午を回っていたが、海水浴場の人口密度はどんどん高くなっていた。もはやどこにも座る場所などなく、ついに岩場にまでやって来てやっと、荷物を広げられそうな場所を見つけた。僕と彼女は倒れるようにそこに腰を下ろした。あらかじめ水着は着込んできたので、お互いTシャツとハーフパンツを脱ぎ、波打ち際まで歩いていった。
 そこは地獄だった。餓鬼がこけてギャーギャー泣き喚き、糞餓鬼が水鉄砲を無差別に撃ちまくっていた。水の中は、人1人に対して畳1畳分くらいの密度だった。くるぶしの辺りまで水に浸かり、彼女と疲れた顔を向け合っていると、突然背後から水鉄砲を浴びせられた。我を忘れて鬼の形相で糞餓鬼を追いかけると、奴は2メートル先でこけてワンワン泣き出した。僕と彼女はげんなりして岩場へ戻った。
 クーラーボックスから取り出した缶ビールをすぐに開けてしまうと、僕と彼女は横になり、顔にタオルをかけ目を閉じた。携帯ラジオのノイズとして、浜辺の喧騒が流れていた。
 胸元の汗が気持ち悪いなと思いつつも少しずつうとうとしだしてきた時、彼女が僕のタオルを取った。僕は手をかざしてうっすらとまぶたを上げた。
「なんか、おかしくない…?」
 彼女が空を見上げて言うので、僕は上半身を起こし彼女の視線を追った。沖に、1機の飛行船が浮かんでいた。
「なんだ…ありゃ。」
 飛行船はあまり見ないから珍しいけれど、それでも「おかしい」と彼女が言うのはおかしい。だが、彼女が「おかしい」と形容したのは飛行船でなくて海水浴場の客だという事に気づくには、そう時間はかからなかった。飛行船なんかが現れれば、喧騒は狂騒に変わっているはずなのに、意外にも海水浴場はしんと静まり返っていたからだ。
「確かにおかしいな…」
 そこで僕はもう一度飛行船に視線を戻すと、なんとなくその理由が分かった。何を意図しているのかさっぱり分からないが、飛行船の表面に、ブットいゴシック体で『バカ』と書かれていた。クリーム色の飛行船に、『バカ』と真っ赤に書いてある。沖に『バカ』がぽっかりと浮かんでいたのだ。
 僕も彼女も、海水浴場の他の客と同じく、しばらくその飛行船を眺めていた。『バカ』は通り過ぎず、円を描いていつまでも上空を漂っていた。海水浴場からは見事に『バカ』の二文字が見えた。
「ねえ、帰らない…?」
 イライラした口調で彼女は言った。
「え、何で?」
「なんかムカつかない? ほら、海水浴場の人達もみんな帰りだしてる。」
 見れば、確かに海水浴場の客が少しずつ帰りだしていた。日が沈むにはまだまだ早いのに皆が帰り始めたというのは、やはり『バカ』のせいなのだろう。彼女は既に帰り支度を始めていたが、僕は別に帰る気は起きなかった。
「帰らないの?」
「うん。たぶん、これから空くよ?」
「でも、あれ気になるでしょー。」
「や、別に…」
「バカ!」
 彼女はそう言い残して帰ってしまった。
 僕は缶ビールを出し、ぐびぐび飲みながら『バカ』を眺めていた。相変わらず『バカ』は円運動を続けていた。いったい、あれを動かしてるのは誰だろうか。何が目的なのだろうか。僕はあっという間にビールを飲み干し、缶を握りつぶした。
 ふと砂浜の方に目をやると、もうほとんど人は残っていなかった。僕は荷物を抱えて砂浜へ移ると、広々とした海へ駆けていった。いつの間にかこの海水浴場には、僕の他には3、4人しか残っていなかった。人の壁に遮られる事なく、楽しそうに波は打ち寄せてくる。僕は思う存分波と戯れた。
「おい、最高だなっ!!」
 近くで波が来る度にウォーウォー吠えていた大男が僕に叫んだ。
「ああ、最高だ!」
 僕はゲラゲラ笑い、波を蹴り上げた。しぶきはキラキラと輝き空気にとけた。
「グヒャヒャヒャ! 俺を、俺を見ろ! こんなんになっても文句は言われねーぜ!」
 振り返ると、波打ち際を全裸の男が飛び跳ねていた。
「バカ! バ~カッ! おめーバカだな! ぶはははは!」
 言いながら大男は水着を脱ぎ捨てて全裸になった。
「ぎゃははははは!! バーカ! バーカ! バカすぎて物が言えねー! ぎゃははは!」
 僕も水着を脱ぎ捨てた。
 時折り来る強い波に押し倒され、僕らはゲラゲラと笑い、浜辺に立ち並ぶ餓鬼の砂城を、片っ端から蹴り崩した。
「バーカッ! バーーーカッ!!」
 夕日が全裸の僕らの影を、どんどんどんどん伸ばしても、沖には変わらず『バカ』が浮かんでいた。