3次会を終え、やっと自由になれたのは午前1時を過ぎた頃だった。客探しで徘徊しているタクシーをつかまえるのはそれほど難しくなかった。交差点で緩やかに停車した山吹色のタクシーに乗り込むと、僕はネクタイを解きながらドライバーに行き先を告げた。タクシーは夜の街を走り始めた。
 僕はタクシーに乗る度に、白い座席カバーの手触りと温度にゾクリとする。白いレースのカバーは冷たくて無機質で、僕にはテーブルクロスのような高級感でなく、棺桶にかける布のような不気味さが感じられるのだった。カラーではなくモノクロの質感だった。
 夜のビル街は無意味に明るく、その明るさのせいで夜空もほのかに明るんでいる。宇宙から眺めても、この街ははっきり光点として認識できるんじゃないかと思えた。この街は不夜城だ。この時間帯に仕事をする人間なんてわんさといる。現に、僕の前にいるドライバーだって…。僕はルームミラーへ目を向け、そこに映る男の顔を眺めた。
 男は落ち着きなく視線をあちこちへ向けていた。下を見たり、横を見たり、目をつむったり、また開いたり。そしてルームミラーに映る僕と目が合って、男は慌てて目を伏せた。随分危ないドライバーだな、こんなのでキチンと運転出来ているのだろうかと思い、僕はルームミラーに映る男の顔をじっと見つめていた。
「お客さん…」
 男はそう言って再びルームミラーへ顔を向けると、そのまま僕に話し掛けてきた。
「お客さん、失礼ですが、何故突然こんな事を聞くのかと不思議に思うかもしれないですが…ひとつ伺ってもよろしいですか?」
「え…。はぁ、何でしょうか?」
「お客さん…幽霊じゃ…ない、ですよね?」
「は?」
 男は目を伏せ、乾いた笑いで誤魔化しながら話し続けた。
「いえ…はは…ほんと突然何を聞くんだ、ってお思いだと思うんですが…ええ…えっとですね…ははは、参ったな。えっと、私らタクシードライバーの間じゃ、結構そういう話が多いんで…」
「ああ、怖い話なんかでよくある…幽霊を乗せたっていう話ですか?」
 男は鼻をつまみながら照れくさそうに続ける。
「ええ、まあ、そう…ですね。あの…そんな事はないと思うんですけど、一応伺っておこうかなと…いえ、私どうも、そういう類に弱いので…」
 男は顔をくしゃくしゃにして、泣き笑いのような表情で言った。年齢の分かりづらいドライバーだったが、僕はこのドライバーに好感を抱いた。
「そうですか。では言います。もちろん幽霊じゃないですよ。人間です。今日は友達の結婚式があって、なんだかんだで3次会まで行ったその帰りです。」
 男は顔を上げ、ルームミラーごしに僕を見つめて話し出した。
「ありがとうございます。そうですよね。どうも変な事を伺って申し訳ありませんでした。」
 そうは言うものの、男は尚も不安げな表情のままだった。僕は少し気味が悪くなり、会話をこれで終わらせたくないなと思って男に話し掛けた。
「えっと…運転手さんは今までそういう経験があるんですか?」
「え、け、経験といいますと…!」
 男は緊張した素振りを見せた。僕はそれに気づかないようなフリをしてさらに訊ねた。
「幽霊を乗せちゃったとか。ありますか?」
「い、いえ…ないです。ないです。」
「ふーん…。じゃ、お仲間の方ではいるんじゃないですか?」
「そうですね…まあ、そんな話を聞いた事はありますけど。」
「聞かせてくださいよ。僕、結構怖い話っての好きなんですよ。」
「え? いや、まあ…よくある話の通りですよ。別に面白いもんじゃないです…」
「墓場の近くで乗せたとか? 着いたら墓場だったとか?」
「まぁ…そんな感じですね。事故現場近くで乗せたら…とか。あの…もう幽霊の話はやめましょうよ…」
 ルームミラーに映る男の顔には、いつの間にか汗がびっしりと浮かんでいた。本当にこの手の話が苦手なようだ。さすがに申し訳なくなり、僕は口を閉じた。だが、突然あんな事を聞かれた事が気になって、再び男に話し掛けた。
「どうしてあんな事を聞いたんですか?」
「あ、あんな事ってどんな事でしょう…」
「トボケないで下さいよ。僕に幽霊じゃないですかって聞いた事ですよ。どうして突然あんな事を? 僕が幽霊に見えたんですか?」
「いえ…そういうわけじゃないんですけれど…」
「ひょっとして僕を怖がらせようとしてるんじゃないですか? そうだ、実は運転手さんが幽霊だとか…」
「馬鹿な事言わないで下さいよ!」
 車内に響き渡るような大声で男は叫んだ。
「済みませんでした。」
「いえ、こちらこそ…」
 僕はもう何も言うまいと思って俯いた。しばらく車内は静寂で包まれたが、それを破ったのは僕ではなく、男の方だった。
「あの、怖い話がお好きなんですよね?」
 男は再び乾いた笑いを浮かべた。何か吹っ切れたような感じだった。
「あ、まぁ…嫌いじゃないですね。」
「実は、私らの仲間うちで、奇妙な話があるんですよね。仲間って言っても、もう、うちの会社のうちの営業所の連中の間だけの話なんですが。」
「どういった話なんですか?」
「毎日じゃないんですけどね、たまに…ごく稀にと言った方がいいかな。まあ、営業所の車が1台増えるらしいんですよ。」
「タクシーが?」
「ええ。でも、誰も車が増えた事に気がつかず、その車は普通に配車されるんですよね。」
「配車って何ですか?」
「その日その日で、ドライバーに車を割り振るんですよ。」
「って事は、その増えた1台に誰かが乗って、客を乗せるわけですか?」
「ええ。」
「その車は普通の車なんですか?」
「配車されて、それに乗って営業に出て、お客さんを乗せるまではいたって普通の車なんですけどね…お客さんを乗せると…」
「乗せると…?」
「操作が効かなくなるって話です。アクセルもブレーキも、何にも。踏んでも、蹴っても…」
「え、それじゃ、お客さん乗せた時点で車が止まっちゃうって事ですか?」
「違います。勝手に走り始めるんですよ。」
「その後はどうなるんです?」
「色んな話のパターンがあってよく分からないんですけどね、ベコベコに凹んだスクラップみたいな状態で発見されるってのは共通してるんですよね。それで現場検証やら何やらのドサクサにフッと姿を消して、そのうちまたフッと営業所に現れるらしいんです。元通り綺麗な形に戻って。」
「って事は…さしずめタクシーが幽霊ってとこでしょうか?」
「そうですね。そういう事になりますね。」
 タクシーはぐんぐん速度を上げている。僕は恐る恐る男に訊ねた。
「あの、まさか…」
「何の為に長々と話したと思うんです?」
「と、止まらないんですか?」
「色々と試みたんですけどね、やっぱり駄目みたいですよ。ですので、お客さんも幽霊なんじゃないかって怖くなってお聞きした次第です。でも、幽霊はこのタクシーだけだったみたいですね。ははは…」
 男は笑った。心の底から笑っていた。笑いつづける事で、何とか理性を保とうと足掻いているようだった。僕はいつの間にか乗り出していた身をシートに預けた。白い座席カバーとスーツが刷れてシュッと乾いた音を立てた。前方の信号は赤へと変わり、タクシーは減速する事なく交差点へと進入していった。