駅から徒歩20分、バスなら10分、1DKバストイレ別、家賃は6万円。何の面白みもない物件だが、貿易倉庫群の側にぽつんと立つそのマンションからの景色は、僕の求めるそれと見事に合致していた。
「いい眺めでしょう。」
 不動産屋の男は言う。本心で言っているのではない事が良く分かる。使われているのかどうか怪しい倉庫群に、錆び付いたクレーンとコンテナと、今にも沈没しそうなタンカーの横たわった港。誰がこれをいい眺めと言うのか。だが僕は本心で言った。
「いい眺めですねぇー。」
 住むなら海の見えるところがいい。それも華やかなベイサイドといった風景ではなく、寂れた貿易港がいい。つまり鉄錆びの臭いと閑散だ、僕の求めるのは。
 それは実に個人的な感覚でのみ定義する「昭和」という概念だ。
 例えば傍らにある、備え付けのクーラーの室外機。無駄な曲線とスリットのひとつひとつに、必要以上に大きな社名のプレート、さらに塗装は所々剥げ落ちて錆びが回っている。それら全てひっくるめて「昭和!」なのだ。
 僕はしばらく辺りを見回していたが、ベランダ越しに隣の部屋を覗き込もうとしてある物に気がついた。
「すみません、これは一体何なのでしょうか?」
 僕はベランダの隅に佇んでいる黒い塊を指して言った。
「えー…さあ…ちょっと存じ上げませんが…。管理人さんに確認してみますか?」
 不動産屋の男はさも面倒くさそうに言うので、お願いしますとは言えなかった。
 そのまま他の物件をいくつか見せてもらったが、後はどれもハズレだった。多少の不便は厭わない、むしろ必要なのは環境と満足だと決めていたので、僕は頽廃漂う海辺の部屋へと引っ越した。

「ごめんください。」
 荷物を運び込み、荷解きの準備に取り掛かっていると、管理人がやって来た。部屋について、ゴミ捨てについて、などの説明を一通りして管理人が帰ろうとしたところで、僕はベランダにある黒い塊の事を尋ねてみた。
「これは一体何なのですか?」
「これは大砲です。」
 管理人は事も無げにそう言った。
「え、大砲…ですか?」
「撃ってみますか?」
「撃てるんですか?」
「撃てますよ。少しお待ちになってください。」
 そう言って管理人は部屋を出て行った。
 ベランダの隅に追いやられていた塊が、大砲だと言う。本当だろうか。じっくりと観察をしてみると、錆びが回っていびつな形状になっているものの、そいつは確かに大砲のようだった。
「お待たせしました。」
 管理人はソフトボールくらいの大きさの鉄球を、両手にひとつずつ掴んでやって来た。
「これを耳にはめてください。」
 管理人に耳栓を手渡されても、まだ僕には嘘のように思えた。一杯食わされているんじゃないか、夢でも見ているんじゃないか。だってまさかマンションのベランダから大砲を撃つわけがないじゃあないか。

 どぉぉぉぉーーん。
 衝撃でマンションが揺れた。体がびりびりと振動した。その時、僕は生まれて初めて腰を抜かした。

 それから僕は、たまに大砲を撃つようになった。ひどく嬉しい事があった時、ひどく落ち込む事があった時、僕はたまらず大砲を撃った。
 どぉぉぉぉーーん。
 マンション自体がびりびりするのだ。その瞬間だけ、頭頂からかかとまでが一本の線でぴいんと繋がるのだ。生の実感を得るでもなし、フラストレーションを爆発させるでもなし。僕にとって大砲を撃つ事は、心の均衡を保つ為の行為だった。
 どぉぉぉぉーーん。
 いくら撃っても弾は無くならない。どうやら昔この辺りに軍需工場があったとかで、管理人がかなりの砲弾を隠し持っていたからだ。
 火をつける。目を閉じる。轟音と振動を視覚以外で体感する。そして耳栓を外して耳を澄ます。
 ぽしゃーん。
 砲弾が着水するその音で、この行為は完結する。後腐れがなくて良いと思う。きっと、ぽしゃーん、という余韻に乏しい音だから良いのだ。これが例えば、ごぉぉぉぉぉぉぉーーー、だとか、ぼりゃーーーーーん、だとかであってはいけないのだ。
 一発撃てば耳が馬鹿になり、その日はもう撃つ気も起こらない。そこがまた後腐れなくて良いと思う。残滓の耳鳴りを鎮めるには静寂が一番だ。この港では汽笛すら鳴らない。

 そこでの生活に完全に馴染んだ頃、毎日、明け方に大砲を撃つ者が現れた。どうやら新たに引っ越してきた者らしい。毎朝、轟音と振動で叩き起こされる為、僕の夢はいつも脈絡のない大地震で終わるようになった。僕はせっかくの楽しみを奪い取られたように感じ、それから大砲を撃たなくなった。
 どぉぉぉぉーーん。
 それで毎朝跳ね起きて、まどろんだまま次の音が耳に飛び込む。
 ぽしゃーん。
 ところがその日は、いつもと違う音が飛び込んできたのだ。
 どかあぁん。
 びっくりしてベランダに出ると、沖で漁船が燃えていた。故意か偶然かは知らないが、沖で漁船が燃えていた。
 その日を境に、大砲を撃つ音はぴたりと止んだ。

 また大砲を撃つ愉しみは、僕だけの物になった。暫らくはそんな気も起こらなかったが、仕事で大きなミスをした日の夜、僕はたまらず大砲を撃った。
 どぉぉぉぉーーん。
 ベランダから先は暗闇で、海も港も何も無かった。ベランダの向こう、としか言いようがなかった。
 ぽしゃーん。
 ベランダの向こうから届くその音までが、僕の神経を一繋ぎにさせた。窓を閉め、カーテンを閉め、電気を消して、ベッドに入って、さてそのまま僕は眠れなかった。ずっと震えが止まらないのだった。
 それからは滅多に大砲を撃たなかった。だが、僕にとって大砲を撃つのは、前以上に重要な行為として位置付けられていた。年に二度か三度、せいぜいそのくらいしか撃たなかったが、その時は決まって夜に撃った。そしてその夜は、必ず朝まで眠れないのだった。