センターから警戒レベル1の通信が届いた。どうやら一帯に雨が降り始めたらしい。見上げると天窓の向こうには、灰色と紫が同居しているような不安定な色が層になって重なり合い、せめぎ合い、急かされるように流れていた。工場の外壁にはコーティングが施されているから、屋内にいる限りは何の恐れもない。ただし終業時間の迫った今ごろに雨が降ってきたので、真っ直ぐ家には帰れないだろうなと思い、すこし気分が沈んだ。不満の声があちこちで聞こえた。
 雨の酸性度は、計測を始めた頃から大して変わっていないらしい。だからといって一度や二度、雨を浴びたくらいで体が溶けてしまうわけではないけれど、センターは降雨時の外出自粛命令を出した。
 終業時間になっても雨が止まない場合、僕らは娯楽室へ行く。そこで大抵、室長のコレクションの映画を観る。映画といっても、町でやっているような記録映画ではなく、廃墟から掘り起こされた昔の映画だ。それらの中には、今ではけっして見る事の出来ない人間達の姿が収められている。殴り合ったり、殺し合ったり、抱き合ったり、口付け合ったり、様々だ。
「今から上映する映画は、出てくる人間が死んだりする。けれど、それは死んでいる演技で、本当に死んでいるわけじゃあないから、安心して観てくれ。」
 室長がみんなに言った。今ではもう慣れたけれど、初めて人間の映画を観た時には、人間がバタバタ殺されていく映像に震え上がった。記録映画しか観る事のない社会にいるので、無理もなかった。
「また人が死ぬ話か。嫌だな。」
 隣でロッターが呟いた。
「人が死ぬ話は嫌いかい?」
「じゃあ君は好きなのかい?」
 ロッターに逆に訊ね返され、僕は言い淀んでしまった。
「でも…実際は死んでいないっていうし…」
「それでもそういう話は物騒で嫌いだよ。」
 ロッターは画面の方を向くとそれっきり黙ってしまった。どうして、僕も嫌いだと言えなかったのだろう。僕だって、人が死ぬシーンは好きじゃない。けれど、人の死ぬ話を作ってまでそれを映画にし、またそれを作り話だと分かっていながら観た人間、というものに思いを馳せつつ観る人間の映画は好きだったのだ。映画の中の人間達は、何か喋っていたり、時には画面の下の方に台詞が表示されたりもするのだけれど、僕らにはその内容がさっぱり分からない。時折り流れる音楽、後は映像。それでもストーリーなんて僕にはどうでも良く、町の退屈な記録映画よりは何倍も面白かった。

 遥か空の上。翼のついたでかい機械が空を飛んでいる。輸送機械らしく、何人もの人が座席に座って思い思いの時間を過ごしている。人間の、たぶんメスであろう人が突然、オスに武器を突きつけられる。そのまま操縦席らしきところへ、オスはメスを捕まえたまま乗り込んでいき、機械を操縦している人に武器を突きつける。隣の席でやはり機械を操縦していた人が、隙をついて犯人であるオスへ飛びかかる。けれどその人は、犯人の武器で呆気なく殺されてしまう。その衝撃で操縦盤が故障し、恐ろしげな音楽が絶え間なく流れ、機械は雲海へ沈む。狂気の表情を浮かべた犯人は、操縦士を全員殺し、メスへ何か言った後自殺する。メスは遠方にあるらしい司令室と連絡を繰り返しながら、なんとか地面へ着陸させる。司令室から指示を送りつづけていたオスと、反発しながらそれに従ったメスは、出会って抱擁する。口付けをする。

 そんな映画だった。娯楽室は明るくなり、みんな思い思いに感想を述べ合っていた。
「口付けっていうのはそんなに大事な、素晴らしい事なのかな? 映画の最後にそれをするんだから、それがテーマなんだろうし。」
「やってみようか。」
 そう言って何人かが抱擁し合い、口付けし合った。
「分かった?」
「全然分からない。」
 映画の鑑賞後は大抵、人間の不思議さをあらためて感じる。全く理解不能なクエスチョン・マークが頭に浮かぶこの感覚が、僕はたまらなく好きだった。

「雨雲は通り過ぎていったみたいだ。各自、家に帰ってよろしい。」
 室長はそう言い、みんなを解散させた。僕は帰り道の同じロッターと一緒に帰る事になった。

 雨上がりの空気は粘り気がある。ぬかるんだ地表を横目に見ながら、コーティングされた舗装路の上を、ロッターと僕は並んで歩いていた。無口で考え事ばかりしている常のロッターらしくなく、今日の彼はよく喋った。
「最近はよく降るね。地軸の向きが変わってきたからかな。」
 ロッターは、相槌を求めているというよりは考えている事を口に出しているだけといった感じで喋りつづけた。
「みんなは雨を嫌がるけれど、僕は雨が好きだよ。窓から眺める雨の軌跡…散らばった直線の濃淡の美しさや、一定していない配置の儚さ…。じっと眺めていると、ひょっとして自分は既に屋外でずぶ濡れになって立っているんじゃないかっていう錯覚にとらわれるんだ。僕の体は一様に溶解を始め、雨粒のひとつひとつに染み込み、それが大地に広がっていく。けれどね、そこでふと、窓に映る自分の姿が目に入るんだ。窓一枚に隔たれて、僕は自然のサイクルから隔絶されているんだって考える。たまらなく寂しくなって寝るんだ。」

 そんな台詞を流暢に言ってのけるロッター。こんな時、人間は表情から相手の感情を推し量る事が出来たのだろう。けれど僕らはロボットだから、僕にはロッターが何を考えてそんな事を言うのかよく分からなかった。
「自然のサイクルと言うけれど、僕らの体を溶かすような酸性の雨は、自然のサイクルに則ってはいないと思うけれど…」
 僕が口を開くと、ロッターは頷きながらそれを聞いていた。そして、教えるようにこう言った。
「確かに人間は雨を酸性に変えてしまったけれど、雨が降るのを止める事までは出来なかった。」
「つまり、酸性雨すらも自然という事…?」
 ロッターはそれに答えず、大げさに空を見上げたので、つられて僕も首を上げた。
「映画の雲は、白かった…」
 僕は思わず呟いた。娯楽室で見た映画の中の雲。真っ白い雲海。しかし今、僕らの頭上を流れていくのは、どこまでもどす黒い雲の大河だ。雪解け水のような怒涛の勢いで雲塊は突き抜けていく。不気味なほど生々しい動きで。
「ロッター、この雲の裏側は白い色をしているかな?」
 たまに晴れ間の覗く時、雲の切れ間に白い色を見出した事などない事くらい、自分でよく知っていた。けれど、それが事実だと思いたくはなかった。映画の中だけにしかない過去の遺物――失われた白い雲や失われた時代への憧憬に逃げ、現実の世界を絶望視する事だけはしたくなかった。そうすると、余計に辛くなるから…。
「確かめてみないと分からない。雲の向こうへ行かなきゃ。」
 ロッターも答えは出さなかった。そしてロッターは話題を変えた。
「そういえば、映画では、人間は空を飛んでいたね。」
「うん。僕もそこがすごく興味深かった。人間は機械を使って空を飛んでいたんだ、って。今、空を飛ぶ事の出来る機械なんてないんじゃないかい?」
「言われてみれば…そうだね。どうしてだろう。」
「飛ぶ必要がないからじゃないかな。そんなに遠くへ行く必要なんてないから。」
「必要…か。じゃあ、どうして僕らロボットには遠くへ行く必要がないんだろう?」
「えっ?」
 考えもしなかった事を言われ、僕は驚きの声を上げた。ロッターはそれ以上何も言わず、いつものように思索の旅へ出た。駅で別れるまで、ロッターは一言も発しなかった。

 人間が梅雨と呼んだ季節になったらしい。一旦は上がった気温も下がってきて、逆に湿気が高くなってきた。出掛けに雨が降り始め、出勤を遅らせる日もあったし、娯楽室で雨の止むのを待つ日も増えた。起きてから眠るまで雨が降っている日もあった。そんな日には工場も休みになり、僕は部屋でずっとテレビジョンを見ていた。遠方で地雷処理をしているロボットが嬉しそうにインタビューを受けている映像などを、ただぼんやりと眺めていた。頭の中では、ロッターの言った言葉が何度も再生されている。果たして、僕はテレビジョンに映る広野へ行く必要があるだろうか…。
「僕にはあんなキャタピラはない…」
 僕はきっと死ぬまで、あの穴だらけの広野へ行く事などないのだろうなと思った。窓の外は激しく雨が降っていて灰色。そしてその奥、丘の上にぼんやりと工場のシルエットが見えていた。

 工場では作業用機械を作っている。僕もロッターもひとつのブースに入り、およそ400種類の部品を組み合わせてひとつの機械を作り上げる。つまり分業じゃなく、最初から最後までひとりで作るのだ。工場で作られた機械は、主に都市部での整地作業に使われる。郊外ならば整地ロボットが土をならせばいいのだけれど、都市部だと狭くてそうもいかず、そこではロボットが機械を押して整地するのだ。とは言っても、実際に僕らの作った機械が活用されているのを見た事はない。検査過程で工場の外の土を叩いている光景しか見た事がない。工場から都市まで機械を運んでいるトレーラーの運転手から、都市の作業現場で使われているよ、と聞いた事があるだけだった。
 都市…。娯楽室で見たいくつかの映画に共通して登場した街の風景を、僕の知らない風景に置き換えて想像してみる。林立する高層建築と、東奔西走する車やロボット達。その一角の空き地が、僕らの作った機械でならされていく。それは都市にとってどれほど重要な事なのだろう。しばしそこで思考が停留する。しかし結局、都市の姿を見た事のない僕には、到底分かり得ない事だった。僕はぼんやりとバーナーを掴む。と、ブースの脇にロッターが立っていたのに気がついた。
「終業のベルが聞こえなかったのかい?」
「え…」
 梁につけられた時計へ顔を向けると、終業から五分過ぎていた。僕はブースを出て帰り支度をし、待っていてくれたロッターと一緒に工場を出た。帰り道、ロッターはこんな事を言った。
「今日は二台完成させた。」
「うん。」
「それで、ひとつ試してみたんだ。」
「何を…?」
「一台は普通に作ったんだけれど、もう一台はプラスドライバーじゃなく×タイムスドライバーでネジを締めた。」
「別に何も変わらないでしょ?」
「いや、×ドライバーを使った方が、キビキビと動くみたいだよ。」
「意外だな。違いがあるんだね…」
 ポツリポツリと雨が降り始めた。こういった時のため、道端には500メートルおき位に、屋根とそれを支える為の柱が4本或いは6本あるだけの質素な小屋が立っていて、そこで雨宿りが出来るようになっている。僕とロッターは慌ててそこへ飛び込んだ。雨足はどんどん強くなってきた。
「しばらくは足止めかな。」
 僕とロッターは並んで地面に座り、雨が大地を叩くのをじっと眺めていた。しかし雨足は全く弱まる事なく、数メートル先の様子すら見せなかった。轟音に包まれた小屋の下の静けさは、まるで僕とロッターが世界から隔離されたのじゃないかとすら思わせた。そんな奇妙な静けさの中、唐突にそれを破ったのはロッターの方だった。ロッターはすっと立ち上がると、降りしきる雨の下へ飛び出した。
「ごめん。僕は帰る事にするよ。」
「帰るって言ったって…雨が降っているじゃないか。早くこっちへ戻りなよ!」
 ロッターは黙って首を振る。その体のあちこちで、雨粒がトトトトトトトと弾けていた。
「少し雨に打たれる位なら平気だけれど、長く打たれていると故障するぞ! それに、センターに知られると廃棄処分にされるって事は知ってるだろ!」
「センターが何だ! 雨に打たれる事は、本来ならば自然な事じゃないのか?」
 ロッターも僕も、声を張り上げて叫びつづけた。雨足はますます強くなり、ロッターの体を強く打ち付け続ける。
「自然? 僕らロボットが、果たして自然な存在と言えると思っているのかい? 例えどんなに他の生物とは違った進化を遂げていようとも、人間は進化の大樹の末端に位置しているんだ。けれど僕らはその樹形図に繋がっていない。存在自体が自然に則していないんだ!」
 いつの間にか声を荒げていた事に気がつき、僕は少し恥ずかしくなって口をつぐんだ。ロッターは尚も雨に打たれたままだった。その姿は雨でぼやけて見えていたが、言葉は逆に、明瞭に聞こえた。
「僕は以前、ロボット製造工場で働いていた事があるんだ。」
 ロッターは言った。僕はロッターの過去の事は知らなかった。
「当然だけれどロボットには生殖能力がないから、工場で作られる。部品なんかを見ていれば、今の工場で作っている機械と同じで…いや、もちろんロボットの方が圧倒的に部品の数は多いのだけれど、結局はロボットも機械なんだ。じゃあ、ロボットと機械を線引きする場所はどこなんだろう? メモリの有無? CPUの有無? それともチップの有無? 何だと思う?」
「人工知能の性能の違い。或いはバージョンの違いかな…」
「全体なんだ。人工知能は確かに重要なファクターだけれど、それだけじゃない。体全体なんだ。例えば君と、検査過程にいる乱暴者のゴーツ。同じ工場で生まれたにも関わらず、違った性格をしているのは何故だろう。人工知能の発展の違いと言ってしまえば簡単だけれど、君は自分の本質が人工知能機構だと胸を張って言えるかい?」
「そんな…。言えないよ…」
「だから、君という存在は体全体でひとつなんだ。そして、同じ工場で大量生産されているにも関わらず、誰もが皆、画一的な発展を遂げない事。この事って、僕は進化と何ら変わりはないと思うんだ。今、僕は自分で考え、センターの命令を無視して雨に打たれている。僕はこんな自分自身を疑う事など出来ないし、僕が不自然な存在だとはとてもじゃないが思えないんだよ。」
 僕はロッターを否定する事など出来なかった。けれど肯定する事も出来なかった。
「ロッター。僕はどうしたらいいんだろう…」
「それは僕に聞く事じゃないな。自分自身に聞く事だ。僕は僕で、君は君。それで充分じゃないのかな。」
「…………」
「それじゃ、僕は行くよ。」
 ロッターは僕に手を振ると、降りしきる雨の空間へ消えていってしまった。僕はぬかるんだ地面をぼんやりと眺め続けていた。
 半ば放心状態のまま、頭の中に次々と浮かぶイメージ達…。雲海へ沈む機械、穴だらけの広野、×ドライバー、室長の錆び付いたネジ、舗装路、雨に打たれるロッター、340番の引き出しに入っているL字型のパーツ、トレーラー、想像の都市の風景…。
 果たして、必要がなければ都市へ行ってはいけないのだろうか。しばし自問してみても、僕はそれを否定する事が出来ない。都市へ行きたがっている自分を発見し、もはや都市へ行く事が自分にとっては必要なんだと思い至る。僕は雨の世界へ足を踏み入れた。全身をトトトトトトトと雨粒が叩く。ひんやりとした感触を感じながら、僕は歩みを進める。ぬかるみに負けないよう、一歩一歩確実に踏みしめて。生物学的に見れば自然な存在ではないのかもしれないけれど、今こうして都市へ向かう僕は、極めて自然な存在だと思えた。やがてハイウェイが見えたら、それに沿って北上しよう。一体、どんな風景が待っているのだろうか…。

 もう小屋の下には誰もいない。それから雨は二日降り続いた。